サッカーを始めるきっかけになったのは、かのレジェンドレフティー、中村俊輔だった。
ジャニーズを好きになるきっかけだった薮くんや加藤シゲ、果ては橋本良亮も、みんな左利きだ。
シゲはMyojoに連載していたエッセイ、青い独り言で「左利きは不便だったけど天才肌っぽいしかっこいい」というニュアンスのことも書いていたのを覚えている。
確かに左利きは天才肌っぽい、という印象がついたのはそのせいかもしれない。
ところで俺は、人を誉めるときに「天才」と評することが多いんですよ。米村くんは天才だな、とか。ねうぴ天才だわ、とか。
でもそれって、「天賦の才があるな」という意味よりは、「その人が魅せたもの(パフォーマンスであったり作品)が、天才的である」っていうニュアンスで使ってる。
才能って、凡才側からは評価できるものではないと思うんだよね。もしかしたら天才なら「才能の差を認識する」ことができるのかもしれないけど。
例えばミリオンヒットのアーティストや、或いは海外移籍をしたサッカー選手だったりを、結果を知った上で才能を評価することはあるのかもしれないけど、それはあくまで「結果の評価を才能に繋げている」だけであって、その才能の自体ではないのかなって。
つまり、「世間的な評価を得ていない人は天才ではない」のかという話になるんだけど、それについてはそうではないというか、「誰かにとっての天才」たり得るのだと思うわけ。
少なくとも、俺個人にとってはメジャーシーンで活躍するアーティストより米村くんの作る歌の方が響くこともあるし、デビューしてないトラジャや職業アイドルではないねうぴやなおぴのパフォーマンスに感動しても、もっと大きな舞台で活躍する人に涙させられることはないかもしれない。
つまり、本当に大切なものは「自分にとってその人の存在やパフォーマンス、作品がどれだけ響くか」っていうのを、消費者として感じはじめたわけ。
「小説家になりたい」っていう夢は、子どものころは「書店に並ぶ単行本として売られる職業作家」しかイメージできていなかった。
当時は今ほどインターネットで作品を発表する場もなかったし、「そうならなければ夢は叶わない」と思っていた。
最近、数年ぶりに再会したネット上の友達に「昔書いてるって言ってたから、小説読んでみたい」って言われて、何作か送ってあげたら、次の日に連絡が来たよ。
「天才だよ!(笑)」って。
いや、それはまあ知り合いだから誇張表現なんだけどさ、その子に送ったのと合わせて、久しぶりにペンネームと作品を載せてもらった短編集の名前でTwitterエゴサかけたら、このブログの記事を読んだ上で短編集を買ってくださった方もいて。
はっしーやしめちゃんに主演してもらえるような作品書きたいって言ってたけどはっしーっぽいかなとか。
シゲリスペクトらしくNEWSのU R not alone感あるとか。
好きなことに対する向き合い方の勉強になったとか。
いやマジ、めちゃくちゃ嬉しかったよ。
本当に。
俺に天賦の才はないし、小さな場所でしか語れないけど、それでも伝わる何かがあるんなら、それが書く理由になるから。
やっぱり俺が文章を書く理由って、それを通じて自分の気持ちや考えてることを伝えたいからだし、それには賛否があったとしても「考えさせられた」であっても「良かった」であっても、誰かに何かを伝えられて、それがその人にとって活きるのであれば、それ以上の幸せはないよ。
元々俺が書き始めたのは職業としての作家を目指していたからではなくて、そういう風に俺が受けてきた影響を他の誰かに広げたくてのものだったから。
「どうしたら職業作家になれるか」ではなく、「なんでそうなりたかったのか」を紐解くと、俺が子どもの頃に描いてた夢は、まだ完全じゃないけど少しは叶ってるんだなって。
それに最近改めて気がついて、まだまだ書くことを続けていこうと改めて思ったわけ。
左利きのエレンを去年読みはじめて、たぶん好きな人はみんな光一に共感をすると思うんだけど、実際に光一がそうだったように、「天才がいるのに凡才が続ける理由」って失くしてしまいがちなんですよ。
(左利きのエレン、アプリのジャンプ+で初回無料で全話読めるので是非読んでほしい)
俺が死ぬほど頑張って書いた作品より面白い、大衆受けするものを書ける人って世の中にはいっぱいいるんだけど、でも誰かにとって「俺が書いたものを読んで良かった」と思ってもらえるなら、読みたいと言ってくれる人が一人でもいるなら、俺はこれからも続けていけるよ。
もちろん大きな舞台に行くこと、職業作家を諦めたとかそういう話ではないんだけれど、俺が書き続ける理由はそこにあるっていう。
結果を出せずに何かを続けることってしんどいんだけど、それによって何かを感じてもらえるなら、天才ではなく凡才の俺も、誰かにとっての天才でいられるなら、これからも俺は前に進むって話。